秀吉の水攻めと関ヶ原合戦前に猛攻を受けた羽島市竹ヶ鼻城

秀吉の水攻めと関ヶ原合戦前に猛攻を受けた羽島市竹ヶ鼻城

羽島市竹ヶ鼻城址
羽島市の竹ヶ鼻城は関ヶ原の戦いでは西軍に属し、前哨戦で東軍に攻め落とされた城です。

 

竹ヶ鼻城址の住所

羽島市竹鼻町2624

 

>>竹ヶ鼻城址の地図

 

 

現地案内看板をチェック!
 

羽島市竹ヶ鼻城址説明看板
竹ヶ鼻城本丸跡と思われる場所に説明看板があります。

竹ヶ鼻城は、応仁年間(1467〜69)の築城と『美濃古城史』にある。天正九年(1581)当時の城主・不破広綱は縄張りを広げ、鬼門の守護神として八劔神社(竹鼻町)を遷座、菩提寺として本覚寺(竹鼻町)を創建した。3年後の小牧・長久手の戦いでは、羽柴秀吉の水攻めに苦しめられた後、開城している。

 

慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いでは、西軍に与した岐阜城の織田秀信の家臣・杉浦重勝が城主を務めていたため、8月22日、木曽川を渡河した東軍に城を包囲される。

 

重勝は降伏を勧められたが、拒絶し抗戦。大身槍をふるって群がる敵陣に踊り入り、獅子奮迅の働きをみせたものの、ついに力尽き、城に火を放って自害した。

 

関ヶ原の戦い後、竹ヶ鼻城は消滅。城跡の位置は残された口承や文献、地形によって推定されるが、確証は得られていない。勝利した東軍は、翌日に岐阜城を攻撃して落城させ、赤坂(大垣市)に集結して大垣城の西軍本営と対峙する。

竹ヶ鼻城は徹底的に壊されて廃城になっているので、かつての縄張りや遺構はよく分かっていません。この石碑も推定で建てられています。

 

 

竹ヶ鼻城説明看板にある関ヶ原合戦での説明図
現地説明看板にある関ケ原合戦時の城攻め図。これを見ると西軍だった竹ヶ鼻城は、福島正則ら東軍が加賀野井城の次に攻め落としたことが描かれています。

 

 

 

お城地蔵尊
 

羽島市竹ヶ鼻城址のお城地蔵尊
竹ヶ鼻城は歴史上数回落城しており、多くの方が亡くなりました。そこで昭和になって供養塔を建てようという計画が持ち上がりましたが、太平洋戦争でそれどころではなくなります。

 

戦後、供養塔ではなくお地蔵さんを建立したところ、城跡周辺の蓮田から一茎双蓮の花が咲きました。この霊験の有り難さが四方に伝わり、お地蔵さんは一躍有名になったそうです。

 

 

 

向かいの寺院も城内では?
 

真宗大谷派竹鼻別院
本丸向かいには真宗大谷派竹鼻別院があります。大正時代の立派な山門がインパクト大ですね。この真宗大谷派竹鼻別院あたりも竹ヶ鼻城の一部だったのではと思います。

 

 

 

私の感想
 

羽島市竹ヶ鼻城址説明看板
私の竹ヶ鼻城の感想ですが、城の遺構は残っていないものの、関ヶ原合戦の前哨戦でよく語られる城なので、現地に行ってみるのは興味深いを思いました。また城の遺構や詳細など、今後、発掘調査があればいろいろと分かってくると思います。