織田信長や斎藤道三ゆかりの美濃岐阜城は、金華山(きんかざん)の山頂にあり、標高329mの山城です。
現在はロープウェーで登りますが、戦国時代の登山道も残されています。
岐阜城に行ったことがある人なら分かると思いますが、正直、
『絶対に落城はしないだろ!!』
と思うくらい険しい山なんですよね。
でも、岐阜城は歴史をに残っているだけでもなんと6回も落城しています。
その落城エピソードは次の通り!
初めての落城は大永五年(1525)、美濃守護・土岐氏の時代。 美濃守護代・斎藤氏家臣の長井長弘と長井新左衛門尉(斎藤道三の父とも)が謀反を起こして稲葉山城を攻撃。これにより長井氏の支配下となる。
2回目の落城は永禄七年(1564)。斎藤道三亡き後、道三の孫・斎藤龍興の時。龍興の城主にふさわしくない生活を戒めるために、家臣の竹中半兵衛重治が家臣16人(10人とも)で稲葉山城を急襲!龍興は逃げ延びましたが、その後、半兵衛は稲葉山城を龍興に返します。
3度目の落城は永禄十年(1567)、織田信長の攻撃によるもの。これにより美濃斎藤家は滅亡し、稲葉山城は信長によって岐阜城と改名。
4度目の落城は天正十年(1582)年6月。明智光秀が織田信長を討った本能寺の変では、岐阜城主だった信長の息子・信忠も亡くなります。この時、斎藤利堯(としたか)が岐阜城を占領します。つまり落城です。ちなみにこの斎藤利堯という人物は、斎藤道三の子で、斎藤義龍の実兄弟でもあります。
そして5度目の落城は天正十一年(1583)の賤ヶ岳合戦時。この時、岐阜城は信長の三男・信孝の居城でした。信孝は柴田勝家を支持しており、羽柴方の稲葉一鉄の説得によりに降伏。賤ヶ岳(滋賀県)で本戦が始まると再び挙兵しましたが、柴田勝家が滅び岐阜城も落城。
最後の落城は慶長五年(1600)の関ヶ原合戦の前哨戦。この時も岐阜城は落城しています。この時の城主は織田秀信(三法師)で西軍。東軍の池田輝政、福島正則の攻撃を受け1日で落城。秀信は高野山送り。
岐阜城(稲葉山城)の落城理由を見ると次の2つに分析できます。
2回目の竹中半兵衛の時や4回目の本能寺の変は、大規模軍勢で押し寄せたというより、計略に近かったのかもしれません。
でも後の4回は軍事行動で落城しているので、『岐阜城の兵は何やってたんだ〜!』と思いますが、この兵を多く配置できなかったというのが、私の岐阜城サクッと落城説でもあります。
つまり、岐阜城は多くの兵を配置できない城だったという事です。
ではなぜ岐阜城は大量の兵を配備することができなかったのか?私の感想ですが、それには次の2つの理由があったからだと思います。
岐阜城の縄張り図を見てみると、金華山の山頂に細長い曲輪が築かれたものになっています。
つまり逆に言えば、広い空間を作ることができず、山頂までは険しいのですが、山頂まで敵が攻めてくると防ぎにくかったと思います。
その理由に岐阜城がある金華山は、尾根筋にいくつもの砦が築かれているんです。つまり山頂に敵が来る前に撃破しようという事ですね。
次に飲料水の確保が難しくて多くの兵を置けなかったという理由もあると思います。
岐阜城は調査の結果、3つの井戸が確認されていますが、これらはすべて溜め井戸、つまり雨水を溜めた井戸だという事が分かっています。
そう、岐阜城がある金華山は岩盤の山で水が湧かないのです。
水分を補給するためにも米を炊くにも水が必要です。
当時は大量の持ち運びを可能にするペットボトル入りの飲料水はありませんでした。
まあ、城内に桶を置いて雨水を溜めるくらいの方法はしたでしょうが、それでもたかが知れています。ましてや、ふもとから水を運んでくるだけでも大変な労力です。
岐阜城内の水が湧かない井戸3つで、何リットルの水を確保できたかデータがありませんが、人数×籠城日数を考えると、大量の兵を置くことはできなかったでしょう。
だから逆に言えば、岐阜城は地形の険しさを頼りにしていただけの城という事もいえますね。
この事から、岐阜城に行った時は次の2つのポイントを意識して散策するのが大事だと思います。
これらの事を意識して巡ることにより、岐阜城の満足度も高まると思います。