国宝天守とゆるキャラ・ひこにゃんで有名な彦根城は、お城ファンのみならず観光地としても人気のスポットですよね。
また2017年NHK大河ドラマ・おんな城主直虎ゆかりの井伊氏が、江戸時代にずっと藩主を務めた城でもあります。
城内には国宝天守をはじめ、重要文化財建造物も5つあり、また石垣も豪快に残っており見応えがある城なのですが…
実は、彦根城は他の城からたくさんの移築されたものがあり、寄せ集めの城と言っている人もいます。
では彦根城のどこの何が移築されたものなのか?この記事では、そんな彦根城に移築されたものをまとめてみました。
まずは彦根城のシンボルともいえる国宝天守。実はこれ、同じ滋賀県の大津城から移築されたといわれ、慶長十二年(1607)頃に完成しました。
また大津城時代は4重5階だったのを3重にコンパクト化して移築。昭和三十二〜三十五年(1957〜60)の解体修理時、天守の用材を転用されたものと考えられる部材が発見されています。
天秤櫓と廊下橋は、同じ滋賀県の長浜城の大手門を移築したものといわれています。
ちなみに廊下橋には、かつて屋根が付いていたそうです。
西ノ丸三重櫓はかつて浅井長政の居城だった小谷城の天守を移築したものといわれています。
しかし昭和30年代に行われた解体修理では、転用材など移築の痕跡は確認されませんでした。
現在、重要文化財に指定されている佐和口多門櫓は、明和六〜八年(1769〜71)に再建されたものですが、もともとは佐和山城から移築した建物だったという指摘があります。
佐和口という名前が、佐和山城ゆかりのものということでしょうか。
重要文化財の太鼓門は、彦根城築城時のものではなく、どこかから移築されたものといわれています。
一説によると、彦根城築城前にあった彦根寺の門といわれていましたが、昭和30年代の解体修理では、やはりどこかの城の門を移築したという結論に至りました。
さらにもともとは、もっと大きかった門を移築時に縮小化したみたいです。
彦根城の石垣にも、移築転用されたものがあります。
鐘の丸虎口の石垣は、解体調査の結果、石垣構築当時のものという事がわかりました。またこの中には佐和山城の石垣の石と考えられるものが多数発見されています。
また別の場所ですが、墓石(宝篋印塔?)の一部も石垣に組み込まれているのが発見されています。石もリサイクルするんですね〜
彦根城の移築されたものをまとめてみましたがいかがでしたか?
そこでなぜこれだけ移築されたものが多いのか?その理由ですが、工期短縮とコスト削減、またゲン担ぎの3つの理由が考えられます。
まず工期短縮の理由ですが、彦根城は慶長九年(1604)に築城が開始されましたが、そもそも彦根城が築城された理由は、大坂城の豊臣氏をはじめ、西国の諸大名に備えるためでした。
だからゆっくり築城するワケにもいきません。
門や櫓もゼロから築くより、現存の建物をバラして運び、組み立てた方が時間的にも早いのです。
またコストの面でも移築のほうが材料をゼロから用意する必要もなく、少なくてすみます。
あとゲン担ぎというポイントですが、移築された城は戦国時代という、戦の時代を乗り切った城です(落城した城もありますが)。
その歴戦のゲン担ぎということで、これらの城の建物を移築したのではないかという研究者もいます。
墓石も現在私たちの感覚では、『なんてバチ当りな事をするんだ〜!』と思いますが、神仏を組み込むことによって、城を守ってもらえるという気持ちがあったかもしれません。
彦根城のほかにも兵庫県の姫路城には古墳の石棺、三重県の神戸城や京都府の福知山城にも墓石といった事例があるので、珍しいという事ではなかったみたいです。
そこで私の感想ですが、彦根城に来ると、かつてのいろんな城の遺構を見ることができて面白いと思いました。
また歴史は調査研究が進むと、今まで常識だったことが非常識になるケースもありますし、その逆もあります。
今後、もしかすると、彦根城の他の場所から移築建造物が判明したりするかもしれませんね。