明智光秀の居城・坂本城跡最寄り駅のJR比叡山坂本駅前に、石積みの郷公園という穴太積みの石垣をPRした公園があります。
穴太積みとは、戦国時代以前から活躍していた石垣を積む専門集団。
もともとは比叡山延暦寺の石仏や墓碑を作っていたのですが、石垣を築く技術も持っており、寺院や城の石垣構築にも携わりました。
この穴太衆が築く石垣は、自然石をほとんど加工せずにパズルみたいに組み合わせて築く、野面積み(のづらづみ)というのが特徴です。
ところで石垣のプロ集団である穴太衆が近江にいたということで、織田信長の居城・安土城の豪快な石垣も穴太衆が築いたと思われていました。
しかし城郭研究科の中井均氏は、著書・近江の城で、穴太衆は安土城築城に携わっていない可能性が高いという事を指摘しています。
今まで安土城の石垣=穴太衆というのが常識でしたが、中井氏の指摘はどういう事なのか?
ポイントを押さえて説明します。
安土城の石垣は穴太衆が積んだ穴太積みであるといわれる唯一の資料が、明良洪範(めいりょうこうはん)という資料です。
その記述を抜粋してみます。
江州にあのふと云所あり、其所にて古より石の五輪を切り出し、其外都て石切の上手多く所有也、夫故、信長公天守を建てられし時、同国の事故、あのふより石工を多く呼寄仰付けられしより、諸国にても此を用ひしに、次第に石垣の事上手に成て、後には五輪を止めて石垣築のみを業としける、依頼は諸国にても通名になり、石垣築者をあのふと云習はしける
これを読むと、穴太衆が安土城の石垣を築いたと解釈できますが、明良洪範は慶長〜正徳年間(1596〜1716)にかけての事績が書かれたものであり、十八世紀初頭に成立した書物なのです。
つまり織田信長が本能寺の変で亡くなり、安土城が廃城になってから後に書かれた書物という事なんですね。
また信長公記をはじめ、当時の安土城築城の記録には、【穴太(あのう)】衆は一切登場しません。
では穴太衆自体がいなかったのか?という疑問ですが、存在はしたみたいです。
戦国時代から江戸時代初期にかけての公卿で神道家の吉田兼見(よしだ かねみ)という人物の日記・兼見卿記(かねみきょうき)に、石垣を構築の集団として次の記述がみられます。
これらの記述を見ると、穴太(あのう)が、石懸(いしがき:石垣を築く事)を行う集団だった事が分かります。
一見、矛盾する様に思えますがこの点について中井均氏は、穴太衆は安土城築城に参加してても、指導的立場ではなく、他の石工集団と共に従事的立場だったからではないかという見解です。
安土城は近畿地方の石工集団が総動員されたと思われます。
ではなぜ穴太衆だけが有名になったのか?
それは安土城築城後、他の石工集団は、もとの生業である石塔や石仏製造に戻ったのに対し、穴太衆は築城需要が高まると見越し、石垣積みの専門集団に転身して、各地の築城に参加したのではないでしょうか。
私の感想ですが、【城郭研究】という学問は、まだ謎だらけですが、石垣についても謎が多いと思いました。
その理由は、石垣の研究については今回の穴太衆の話だけではなく、墓石や石仏の転用石、また天下普請による刻印石など、分かっている事より分からない事の方が多いからです。
でも城郭に関する研究はどんどん進んでいるので、今回の穴太衆も近い将来、いろんな事が分かるかもしれませんね。