戦国時代の山城の様子がよく分かる豊田市の足助城跡

戦国時代の山城の様子がよく分かる豊田市の足助城跡

 

 

愛知県豊田市足助町(とよたし・あすけちょう)の足助城跡は、戦国時代にこの地を治めていた足助鈴木氏の居城です。松平清康が攻めたり甲斐の武田氏へ無血開城した歴史もあります。

 

 

別名・【真弓山城】、【松山城】。

 

 

>>足助城の歴史について | 城址公園足助城公式サイト

 

 

 

 

 

足助城は個人的に大好きな城で、私はナンダカンダで20回以上は行ってますよ。では足助城の何が良いのか?ポイントと見どころをチェックしてみましょう!

 

 

 

 

 

 

 

足助城がオススメの3つの理由


私が『愛知の城でどこがオススメですか?』と質問されたら、真っ先に答えるのが豊田市の足助城です。

 

 

ではその足助城のいったい何が良いのか?個人的に次の3つの理由があるからです。

  1. 遺構
  2. 建物
  3. 管理事務所

では順番に説明しますね。

 

 

 

 

 

(1)遺構の残り具合が良い

 


足助城は発掘調査をもとに復元された城で、城内に残る遺構は戦国期のものです。例えば井戸跡、台所跡の厨(くりや)、そして切岸(きりぎし)や曲輪など、説明版もあり分かりやすく解説してあります。

 

 

 

 

 

(2)建物が忠実に復元されている

 


足助城内には櫓や物見台がありますが、これらの建造物は全て発掘調査をもとにできる限り忠実に復元されたものです。

 

 

発掘調査で出てきた柱の穴の遺構を活かして建物が復元されていますので、大きさと場所は同じという事なんですよね。

 

 

ただ柱から上の部分は不明なので、同時期の時代考証をもとに復元されていますし、本丸の高櫓はNHKの鉄塔を動かすことができなかったので、史実の場所より少しズラして建ててはあるのですが、できる限り忠実に復元してある事は高く評価できると思います。

 

 

 

 

 

(3)管理事務所がある

 


足助城には管理事務所があります。

 

 

『だから何なの?』と思うかもしれませんが、つまり人がいるという事。

 

 

山城をたくさん巡っている方にはわかると思いますが、遺構の残り具合が良い山城ほど無人が多いのです。つまり何かあった時に近くに人がいないといろんな危険があります。

 

 

その点、この管理事務所には管理人の方が常にいますし、トイレもあるので何かと安心できますね。

 

 

【人がいる】

 

 

これって、平城の観光城なら当たり前のことでも、山城になると有難い事なのですよ。

 

 

以上が足助城おすすめ3つの理由です。

 

 

 

 

 

足助城の開城時間と休館日

 

  • 開城時間 午前9時〜午後4時30分(入城は午後4時まで)
  • 休城日 木曜日(ただし、4月29日〜5月5日及び11月を除く) 年末年始(12月25日から1月5日)
  • 入城料 おとな300円 高校生100円 中学生以下無料

 

 

 

 

 

足助城の各種アクセス

足助城のアクセスについて説明します。

 

 

まず電車&バスで訪れる場合、名鉄本線の東岡崎駅からバスでアクセスするのが一般的です。

 

 

所要時間の合計は約1時間40分ほど。料金は800円

 

 

詳細は私のブログでチェックしてみてください。

 

 

こちら ⇒ 足助城と香嵐渓へのアクセス(電車&バス編)

 

 

次に車でアクセスする方法ですが、まずはカーナビの建物検索で足助城と入力してみてください。

 

 

もしロードマップで行く場合は、足助城の住所をチェックしてみましょう。

 

 

足助城の住所

愛知県豊田市足助町須沢39-2

 

 

足助城の地図

 

 

 

 

 

足助城の井戸と物見台


では、早速足助城を巡ってみたいと思います。

 

 

その前に入城料を払うと足助城のパンフと縄張り図をもらえるのですが、この縄張り図は必須です。

 

 

なぜかというと、この縄張り図で足助城の全体図や遺構、そして見どころポイントを把握できるからです。

 

 

城内はこの縄張り図を片手に散策しましょう。

 

 

 

 

 


まず最初に周るのはこの範囲です。南の丸腰曲輪〜西の丸。入口をくぐり足助城の西側ですね。

 

 

 

 

 


足助城の城門。雰囲気がありますね。

 

 

ちなみに現在の足助城入口は、戦国時代には無かった入口で、城の背後から中に入る形になります。

 

 

 

 

 


そして城門を潜って中に進むと…おお!足助城が見えてきました。

 

 

足助城ま中世の山城をできる限り忠実に復元したものなので、城壁も無ければ、白亜の天守もありません。

 

 

まず見えてきたのは、板葺きの建物と木の柵ですね。

 

 

 

 

 


城内はある程度整備された道を進みますが、それでも道は芝生や土です。アスファルト舗装ではありません。

 

 

 

 

 


井戸跡。

 

 

足助城には複数の井戸跡が確認されています。城内の水の手ですね。

 

 

 

 


城内にチラホラ顔を出している巨石。この周辺の山は、こういった巨石が多いです。近くの大給城も巨石を活かした作りの城です。

 

 

 

 

 


西の丸にある西物見台。これも発掘調査をもとに復元された建物なので、位置と大きさは戦国時代と同じです。たまに中に入る事ができます。

 

 

ちなみに後ろに見えるのが、本丸の高櫓です。

 

 

 

 

 

山城のキッチン・厨跡


西の丸を抜けると南の丸に出ます。

 

 

ここにはあまり山城では見ない施設があるんです。それが厨跡(くりやあと)、つまり台所です。

 

 

 

 

 

 


まずはカマド跡。ここには焼けた石が並んでいて、周辺に木じり(燃えかけの木)や炭、灰が散乱していたそうです。そのことから、炊事などに使われたカマドがあったと思われ再現されました。

 

 

城内の籠城兵全ての食事調理していたのでしょうか?もしくは身分の高い武士専用の台所?

 

 

大鍋があれば、数十人分の米は炊けそうですね。

 

 

 

 

 


厨(くりや)は、食事の準備を行うところという意味ですが、食事の準備だけではなく、武士が寝泊まりして、武具の手入れや草鞋を作ったり、いろんな仕事をしていた場所と考えられています。

 

 

 

 

 

 


厨は2つあるのですが、中に入ると土間があり、囲炉裏(いろり)があり、その奥に部屋がある作りになっています。

 

 

後から紹介しますが、本丸にはもうひとつ建物があるので、城主は緊急時には本丸の建物に籠るでしょう。そう考えると、この厨は城主以下の武士、もしくは足軽の詰所みたいな場所だったと思われます。

 

 

 

 

 


厨跡には水瓶もありました。足助城には井戸跡が確認されていますが、水を飲むために毎回井戸まで行くのではなく、ある程度必要な水をこうして貯水していたのでしょう。

 

 

 

 

 


壁にかかっていた、水筒をはじめ足半(あしなか)、草履(草履)、草鞋(わらじ)。

 

 

水筒はともかく、履物の違いわかりますか?

 

 

ここで気になったのが足半(あしなか)。草鞋を半分にした様な履物ですが、信長公記に記載がある履物です。

 

 

天正元年(1573)8月、越前の刀根坂(とねざか)で、織田軍が朝倉軍を追撃していた時の事。兼松正吉という武将が手柄を立てて信長の前に現れました。

 

 

信長が正吉の足元を見ると、素足で血だらけになっていたので、自分の足半を褒美として与えたのです。正吉はその足半を大事に保管し、兼松家の家宝にしました。

 

 

ちなみにその足半は、現在、名古屋市中村区の秀吉清正記念館に所蔵してあり、たまに展示されます。

 

 

 

 

 


厨跡の屋根を見ると石が乘っていました。これは発掘調査で柱穴列に沿って石が多数出土したので、戦国時代にも主流だった石置き屋根と想定し復元されました。そいうことは、この石は地下に眠っていた石?という事になりますね。

 

 

 

 

 


厨跡の上の高台からは物見台の遺構が出土しました。

 

 

足助城周辺には、足助七城といわれた城群があり、この物見台は南方の鶏足城(けっそくじょう)と連絡を取り合っていた施設だったと考えられています。

 

 

 

 

 


厨跡から本丸を見るとこんなカンジになっています。足助城はいろんな場所で絵になる城ですね。

 

 

 

 

 

これが山城の天守!?高櫓


それではいよいよ本丸、足助城の重要部分です。

 

 

戦になった時、基本的には城主は本丸に籠るので、ここが足助城の心臓部といっても良いでしょう。

 

 

 

 

 


本丸にあるのは、天守ではなく高櫓といわれる建物です。

 

 

足助城は発掘調査の結果、本丸にも建物があった事が分かっていますが、白塗りの天守ではなく、二階建ての櫓みたいな建物があった様です。

 

 

 

 

 


お城ファンの間で名高い足助城本丸の鉄塔。足助城内で唯一目立つ近代的建造物です。

 

 

足助城を整備する以前から鎮座する鉄塔で、なんの鉄塔かというと、国営TV・NHKの鉄塔。

 

 

どうしても動かすことができず、実は史実の本丸高櫓の位置にあり、そのために本丸高櫓をあえてズラして再建したのだとか。現在は地デジの鉄塔になっており、より動かすのが難しくなってしまったある意味、足助城の御神体みたいなものです。

 

 

 

 

 


ところで足助城の復元のコダワリをチェックできるものが本丸にあります。それが釘(くぎ)です。

 

 

現代の釘ではなく、当時の釘を再現して使用しており、今のものとはカタチが違うし、少し平べったいものになっています。

 

 

本丸高櫓のいろんなところで見る事ができる釘なので、これもチェックしておきましょう。

 

 

 

 

 


それでは高櫓の中に入ってみましょう!

 

 

中は土足厳禁で、履物を脱げば上がる事もできます。

 

 

 

 

 


高櫓の中にある復元された厠(かわや)。トイレのことです。

 

 

誰でも使用できるトイレではなく、城主や来客用のものだったのでしょう。

 

 

 

 

 


一段高くなった部屋があります。ここは足助城本丸の居間で、城主や身分の高い武将だけが入る事ができたであろう場所と考えられています。

 

 

 

 

 


足助城は松平清康に降伏したり、甲斐の武田氏に無血開城した歴史があるので、そんな時、ここで評定(作戦会議)が行われていたのかもしれませんね。(友情出演:ハマン治部大輔殿)

 

 

 

 

 


それでは二階に上がります。階段は国宝・犬山城の天守みたいにかなり急です。

 

 

 

 

 


高櫓の二階。9畳の部屋になっています。足助城の四方を見渡すことができ、ここで来客の対応もしたそうです。

 

 

 

 

 


そのためか二階の壁には、ある仕掛けが施してあります。

 

 

一見、普通の壁に見えますが…

 

 

 

 

 


なんと壁の一部が開き、中から大人くらいの人間が出てくるスぺースがあるのです。実はこれ、武者隠しといって、来客が来た時、城主に危険が及びそうな時などは、ここから護衛の武士が出てこれる様に隠れる様にできています。

 

 

実際にあったのかはどうかわかりませんが、世は戦国なので何があってもおかしくはありませんよね。

 

 

これも戦国時代の山城の遺構?なのでしょう。

 

 

 

 

 

 

高櫓の二階から外を見てみると、現在の県道が見えます。

 

 

じつはこれ、かつての伊奈街道なのです。

 

 

足助城は武田軍に攻められましたが、この街道を武田軍が通って来ていたのですね。

 

 

 

 

 


足助城周辺の街道を示すパネル。これを見るとかつての街道と現代の道がほぼ同じ場所が多く、足助城を中心に街道が交差しており、昔も今も交通の要所という事が分かりますね。

 

 

 

 

 


こちらは西側の景色。

 

 

西の丸の向こうに現在の足助町の町が見えます。当時も建物は違いますが、中世の街並みが見えていたのでしょう。

 

 

 

 

 

足助城の所要時間と感想

さて、私が愛知県で1番のオススメの城である足助城、いかがでしたか?

 

 

私の感想は、足助城は中世の山城を知りたい人にかなりオススメの城だと思います。

 

 

その理由は、復元方法、遺構の残り具合、そして管理事務所があり人がいるという点もそうですが、雰囲気がまさに戦国だからというのもあるからです。

 

 

足助城の所要時間ですが、周り方にもよると思いますが、ジックリ見ても約1時間あれば堪能できると思います。

 

 

あと訪れる時の注意点ですが、11月中旬〜下旬の紅葉の時期は避けた方が良いです。

 

 

なぜかというと、愛知県内で屈指の紅葉スポットである、香嵐渓(こうらんけい)の裏山なので、道路渋滞が非常に激しいからです。

 

 

だから訪れるなら、紅葉が終わった12〜5月くらいの初夏がオススメ。(でも雪には注意)

 

 

ともあれ、中世の雰囲気を堪能できる足助城は、愛知の名城だと思います。