九鬼嘉隆の首塚,胴塚そして寝屋子制度とは?!答志島体験レビュー

九鬼嘉隆の首塚,胴塚そして寝屋子制度とは?!答志島体験レビュー


織田信長の家臣で織田水軍の将・九鬼嘉隆ゆかりの伊勢鳥羽城。本丸から答志島(とうしじま)が見えます。答志島は九鬼嘉隆が最期を迎えた地であり、嘉隆の首塚や胴塚をはじめ、戦国史跡が点在しています。

 

また鳥羽城からのフェリー移動も比較的楽なので、私的には鳥羽城を答志島をセットにするのがオススメです。では実際、どんな島なのか?私の体験をもとにレビュー記事でチェックしてみましょう!

 

 

もくじ

 

 

 

 

 

 

答志島へのアクセス方法


まずは鳥羽から答志島への行き方を説明します。

 

 

主なアクセス方法は、鳥羽の佐田浜フェリー乗り場から鳥羽市営定期船に乗り、答志島の和具(わぐ)港への移動です。

 

 

佐田浜から直行フェリーが出ているので、これに乗れば楽に行って帰ってくることができます。

 

 

ちなみに料金は片道540円(往復1,080円)

 

 

所要時間は片道約20分前後です。

 

 

>>鳥羽市営定期船の詳細

 

 

 

 

 

 

 


次に車で答志島への行き方について。

 

 

車で行く場合は、佐田浜港近くの駐車場に車を停めてフェリーに乗って移動しましょう。

 

 

駐車場はいくつかあり、料金は平日、土日祝日問わない前日、1時間までなら無料、2時間まで500円です。

 

 

また車種によって条件が違うので、案内看板の画像で判断してください。

 

 

 

 

 

 

どんなフェリー


ではこれから約20分ほどの船旅です。

 

 

これは鳥羽市営定期船の1階。鳥羽市営定期船は2階建てになっており、ともに自由席です。2階はオープンデッキ部分もあります。

 

 

 

 

 


鳥羽市営定期船には、トイレや自販機などが設置してあります。

 

 

(レストラン、売店はありません)

 

 

 

 

 


2階は窓が無く、屋根のみになっており、風を体感できます。

 

 

ちなみに、この画像の目の前に広がる大きな島が答志島です。

 

 

 

 

 

 

首塚へ


そして答志島へ到着!

 

 

観光客のほか、地元の方々は普通に仕事している風景が目に飛び込んできました。

 

 

さて、ここから九鬼嘉隆の首塚や胴塚といった墓の参拝のほか、答志島の史跡をチェック!です。

 

 

 

 

 


フェリー乗り場近くにある観光案内看板。

 

 

これを見るとチェックしておくべき史跡は次の4つに決定しました。

  • 首塚
  • 胴塚
  • 洞泉庵跡(嘉隆最後の地)
  • 血洗い池(刀を洗った池)

帰りのフェリー時間との兼ね合いもあるので、あまりゆっくりしてはいられません。

 

 

では早速史跡巡りへGO!

 

 

 

 

 


フェリー乗り場から少し歩くと、早速、九鬼嘉隆の首塚アクセス看板が建っていました。

 

 

しかもココから580メートルとは、かなり近くにありますね!看板に沿って進んでいきます。

 

 

 

 

 


あれから看板がいくつかあり、看板に沿って進んでみますが…

 

 

なにやらどんどん険しい道に入って行きます。というより、細くなっていくような、山道になっているような…

 

 

ところでなぜここ答志島に九鬼嘉隆の首塚があるのかという理由について。

 

 

慶長五年(1600)の関ヶ原合戦時、九鬼家は東軍に付くべきか、西軍に付くべきかで悩んでいました。

 

 

そこで信州上田城の真田家の様に家を二つに分けたのです。

 

 

まず西軍に九鬼嘉隆が付く。

 

 

そして東軍に息子の九鬼守隆が付く。

 

 

これにより、西軍と東軍のどちらかが勝っても、九鬼家自体は残るであろうと。

 

 

そして勝ったのは東軍(守隆)でした。

 

 

負けた西軍の嘉隆は答志島へ逃れ、自害しようとします。

 

 

守隆は東軍に付いた手柄は放棄してもよいので、西軍に付いた父・嘉隆の助命を徳川家康に嘆願し、許可を得ることに成功!

 

 

もう逃げ隠れせずとも大丈夫!と父に伝えに行ったところ…

 

 

答志島の嘉隆は、守隆の使いが自分に対する追手と思い込み、もはやこれまでと洞泉庵で自害。

 

 

首は家康のもとへ届けられた後、答志島に葬られ、胴体も答志島の別の場所に葬られました。

 

 

九鬼嘉隆は織田信長のもとで活躍し、鉄甲船(※)を作り毛利水軍を破り、水軍の将として名を馳せた人物でしたが、意外な最後を遂げた人物なのです。

 

 

(※)九鬼嘉隆が製造したといわれる鉄甲船については諸説あります。

 

 

 

 

 


そんな事を考えていたら、たどり着いた九鬼嘉隆の首塚。

 

 

石の柵に囲まれた中には、自然石に大隅大権現と刻まれています。

 

 

大隅守(おおすみのかみ)の官位を授かっていたことから、この文字が刻まれたのでしょう。

 

 

またこの地は海に突き出た岬みたいな場所で、海をぐるっと見渡すことができます。

 

 

>>首塚の場所の地図

 

 

 

 

 

 

胴塚へ


首塚を参拝した後、次の胴塚へ行く道。正直、山城巡りしているみたい。

 

 

九鬼嘉隆の首塚、胴塚は三重県指定の文化財で、観光マップにも記載されているので、快適に訪れることができそうなものの…

 

 

いざ歩いてみると、山道の連続になっています。

 

 

 

 

 


そしてたどり着いた胴塚。

 

 

首塚は山頂の岬みたいな場所でしたが、胴塚は山のふもとにありました。

 

 

ココにも案内看板が建っています。

 

 

>>胴塚の場所の地図

 

 

あと、胴塚付近でチェックしておきたいものが2つありました。それがこちら!

 

 

 

 

 


洞泉庵跡。九鬼嘉隆が最期を迎えた場所です。現在は答志和具コミュニティセンターという、公民館みたいな建物が建っており、その横に石碑があります。

 

 

>>洞泉庵址の地図

 

 

 

 

 


九鬼嘉隆が自害した後、刀を洗ったといわれる池の址で、地元では血洗い池といわれています。

 

 

洞泉庵の前庭の池で、背後の山から岩清水が溜まっていましたが、長年の間荒れたままになっていました。

 

 

それを近年、地元の有志が整備して公開しています。

 

 

>>血洗い池の場所の地図

 

 

 

 

 

 

答志島の寝屋子制度とは


答志島には、少し変わった制度があります。それが寝屋子(ねやこ)制度です。

 

 

簡単に説明すると、家の長男は中学を卒業すると、寝屋親(ねやおや)を見つけ、結婚して所帯を持つまで寝屋親のもとで夜を過ごすそうです。

 

 

寝屋親の所には、他にも数人の男子が集う様になるので、夜の間、寝屋親のもとで集団生活を行います。

 

 

また同じ寝屋親のもとで過ごした男子たちは、寝屋子朋輩(ほうばい)といって、友達や親友、またはマブダチといった関係よりも深い絆で結ばれ、その縁は一生続くといわれています。

 

 

ちなみに昔は毎晩、若者たちは寝屋で暮らしていたそうですが、最近では週末に1日、もしくは一か月に1晩くらいの頻度になっているそうです。

 

 

いつなぜこの様な制度が始まったのか?理由はハッキリしていません。

 

 

しかし一説によると、戦国時代、九鬼水軍が船の漕ぎ手をいち早く集めるために始めたともいわれています。

 

 

つまりいつでも出陣できる様、小集団グループを作り、連帯感を強めていたという事ですね。

 

 

 

 

 

 

所要時間と私の感想


まず所要時間について。

 

 

今回巡った史跡は次の順番。

 

 

首塚⇒ 胴塚⇒ 洞泉庵⇒ 血洗い池

 

 

この4つの史跡を巡り、再び和具港のフェリー乗り場に帰ってきた所要時間は約50分です。

 

 

つまり約1時間弱あれば、答志島の九鬼嘉隆関連の史跡は巡ることができます。

 

 

あと私の感想と史跡巡りの注意点について。

 

 

今回4つの史跡を実際に歩いてみた体験による感想ですが、山道みたいな登坂も多く、正直、レンタサイクルの自転車や車椅子では無理だと思いました。

 

 

また女性もハイヒールなどではなく、スニーカーみたいな運動靴で訪れた方が良いですね。

 

 

上り下りの高低差もあるので、できれば夏ではなく冬のほうがオススメだと思います。

 

 

あと答志島はそんなに来ることが無い離島だと思うので、伊勢鳥羽城を訪れた時にセットにすると良いでしょう。