柴田神社が建立された理由は北ノ庄城の柴田勝家の首なし武者行列だった

柴田神社が建立された理由は北ノ庄城の柴田勝家の首なし武者行列だった


かつて柴田勝家の居城だった北ノ庄城には、勝家の怪談話が残っています。旧暦4月24日。この日は柴田勝家が妻・お市の方と共に亡くなった日で、北ノ庄城が落城した日でもあります。江戸時代、すでに北ノ庄城は無く、跡地には福井城が築城されましたが、城下町は北ノ庄城時代とほぼ同じ場所にありました。

 

 

しかし町民たちは4月24日だけは、夜中に家から出ることはありませんでした。なぜかというと、この日の夜は柴田勝家ら首が無い武者行列が、九十九橋(つくもばし)から北ノ庄城本丸に向かうからです。またこの行列を見た人は、謎の死を遂げるということで、町人たちは4月24日を柴田忌と呼び絶対に夜に外出しない日としたのです。

 

 

行列の絵を描いた男
 


柴田勝家の首なし武者行列の話は、江戸時代もずっと福井城下で語り継がれていましたが、享保十七年(1732)、武者行列を自分目で確かめた人物がいました。表具屋の佐兵衛(さへえ)という男です。

 

 

佐兵衛は4月24日の夜、九十九橋の隅に身を隠してじっと待ちました。丑三時(うしみつどき:午前2時頃)、九十九橋付近から馬の蹄(ひづめ)の音が聞こえ、武者行列が九十九橋を渡ってかつての北ノ庄城本丸へと向かいます。また馬上の武者、足軽たちに首は無く、その凄まじい姿に全身が凍り付くように感じた佐兵衛は、転がるように家に帰り、仕事場に入って先ほど見た行列の様子を書き始めました。

 

 

夜が明けると…

 

 

仕事場で佐兵衛は亡くなっており、側に掛け軸の箱が置かれていました。彼の妻は全てを悟り、掛け軸の入った箱を福井藩士・糟谷伝左衛門宅に届けます。伝左衛門が掛け軸を確認すると、箱の傍らに【首なし武者行列】と書かれた紙が入っていました。つまり佐兵衛は、掛け軸を完成させ箱に入れてから亡くなったのです。の事を不吉に感じた糟谷伝左衛門は、庭に出て紙を焼こうと火を付けました。

 

 

すると火のついた紙はひらひらと舞い上がり、座敷に入って障子に火を移してしまい、伝左衛門の屋敷ほか、周辺の藩士宅6件を焼いてしまいました。

 

 

武者行列に遭って助かる方法
 


もしこの柴田勝家の首なし武者行列に遭遇してしまったらどうすればよいのか?地元には次の様な伝承があります。

 

 

行列に遭遇すると、必ず向こうから『お前は何者だ?』と聞かれるそうです。その時、『勝家公の家臣』といえば助かるのだとか。またこの怪奇な現象は幕末の福井藩主・松平春嶽(まつだいら しゅんがく)も記録に残しており、勝家の霊を慰めようと明治二十三年年(1890)、柴田神社を建立しました。それ以後、武者行列は現れなくなったそうです。

 

 

私の感想
 


私の感想ですが、怪談とはいえ柴田勝家関連の逸話ということで、非常に興味深いものだと思います。なぜかというと、柴田勝家は現在の名古屋市名東区(めいとうく)出身で、彼の生誕地といわれている下社城(しもやしろじょう)には、柴田勝家生誕地の石碑も建っています。

 

 

>>柴田勝家生誕地の下社城

 

 

しかし地元の方や名古屋市民も、勝家が名古屋出身の戦国武将という事は知られていないのです。これは勝家がインパクトが無いという事ではなく、愛知県は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった武将がもっと有名なので、その陰に隠れてしまっているという印象ですかね。

 

 

でも私も個人的には柴田勝家は好きな武将のひとりですし、その勝家関連の話が福井県に残っていたので、今回の城巡りの収穫は大きかったと思います。ちなみに九十九橋は鉄筋コンクリート造りに変わり、現在でも存在しています。柴田神社から西へ500mほどのところにあるので、柴田神社とセットで訪れてみるのも良いですね。

 

 

>>九十九橋の場所の地図