武田と徳川の攻防戦の舞台!遠州二俣城と鳥羽山城

武田と徳川の攻防戦の舞台!遠州二俣城と鳥羽山城

 

 

かつての遠江(遠州)である、静岡県浜松市二俣町にある二俣城跡と鳥羽山城跡は、元亀〜天正年間にかけて、甲斐の武田氏と徳川氏が攻防を繰り広げた城です。

 

 

そして二俣城は、家康の嫡男・信康が最後を迎えた城でもあります。

 

 

>>二俣城・鳥羽山城の詳しい歴史 | ウィキペディア

 

 

遠州は戦国時代、今川、武田、徳川といった勢力の影響に翻弄された城が多く、二俣城と鳥羽山城もその例外ではありません。

 

 

たくさんの城跡が残る中、二俣城と鳥羽山城は平成29年(2017)に国指定史跡にもなりました。

 

 

>>二俣城跡及び鳥羽山城跡の国指定史跡について

 

 

歴史的にも有名で、遺構も珍しいものから重要なものまで残るこの2つの城を、ジックリ攻めてみましょう!

 

 

もくじ

 

 

 

 

 

 

 

電車で二俣城・鳥羽山城へのアクセス方法


電車で二俣城と鳥羽山城へアクセスする時、最寄り駅は天浜線(てんはません)の二俣本町(ふたまたほんまち)駅です。

 

 

この二俣本町駅まで来れば、二俣城・鳥羽山城は歩いてアクセスが可能です。

 

 

2つの城とも、徒歩15分〜20分くらいです。

 

 

たまに天浜線のウォーキング企画で、駅スタート、駅ゴールで2つの城を巡るものもあるくらいです。程よい高低差で楽しく巡る事ができると思います。

 

 

 

 

 

車で二俣城のアクセス方法と駐車場


次に車で二俣城へのアクセス方法と駐車場について説明します。

 

 

まずはカーナビの検索で、二俣城跡と入力してみましょう。

 

 

もし出てこない場合やロードマップでアクセスする場合は、駐車場の住所から拾うと分かりやすいです。

 

 

二俣城駐車場の住所

静岡県浜松市天竜区二俣町二俣

 

 

>>二俣城駐車場の地図

 

 

 

 

 

二俣城の入口から虎口まで


それでは二俣城に登ってみましょう!といっても、駐車場に車を停めれば入口はすぐですし、なだらかな坂道をゆっくり登るので、楽に散策できると思います。まずは二俣城の東である、北曲輪〜食い違い虎口までをチェックしてみましょう。

 

 

 

 

 


入口の石碑。ここから上っていきます。

 

 

 

 

 


しばらくすると、右手の藪に窪んだ場所がある事に気付きます。これが二俣城の堀切(ほりきり)です。堀切とは、山の尾根を遮断した堀のこと。尾根沿いから侵入してくる敵を食い止めるための防御です。

 

 

 

 

 


堀切のすぐ側に旭ヶ丘神社があります。ここはかつての北曲輪跡です。

 

 

今では神社の境内となり、削平地になっていますが、この場所が次に紹介する虎口(こぐち)にとって非常に重要な場所になります。

 

 

 

 

 


堀切を抜け、北曲輪だった旭ヶ丘神社を通りこすと、曲がった道があります。

 

 

『曲げないでまっすぐ作れよ…イジワルだな…』

 

 

と、思うかもしれませんが、実はこれ、ワザと曲げて作ってあるのです。なぜかというと、これが本丸入口の虎口跡の遺構だからです。

 

 

 

 

 


北曲輪の後ろから攻めてくる敵がいるとするなら、本丸に至るまでに道を曲げてあるので、本丸や北曲輪から側面攻撃を受ける事になります。

 

 

さらに本丸入口には、たぶん門もあったのでしょうから、門を破ろうと苦戦している時も容赦なく後ろや横から鉄砲、矢などが飛んでくる。

 

 

これって攻側からすると、キツイですよね…

 

 

こうやって虎口がある場所は、攻めやすく守りやすいように工夫されています。

 

 

 

 

 

天守台はいつ築かれた?

 


それでは本丸に入ってみましょう。本丸も公園として整備され、芝生広場が広がっていますが、まず目に入るのは天守台ですね。

 

 

 

 

 


石垣は自然石をほとんど加工しないで積み上げる野面積みです。

 

 

そして気になるのが、この天守がいつ築かれたのかという事。これについてはまず、武田氏と徳川氏の攻防後の天正三年(1575)年以降だといわれています。

 

 

その時、徳川氏によって築かれたのか、また徳川氏が関東移封後の堀尾氏時代のものか?諸説がありハッキリしていません。

 

 

 

 

 


天守台には登る事ができます。そして本丸を見るとこんな感じです。

 

 

 

 

 


本丸の食い違い虎口付近にある土塁。石垣の上に築かれていますね。

 

 

 

 

 


本丸の隣りには二の丸があり、虎口追手があります。ただ公園整備の時にどれくらい保存されているのかは分かりません。

 

 

もし現在に残る道が当時のままを整備したものなら、かなり曲がりくねっており、バンバン横矢攻撃ができますね。

 

 

 

 

 

一番気になる水の手曲輪


そして二俣城水の手曲輪方面に進みます。二俣城のエピソードの中で、信康の最後と同じく有名な場所ですね。

 

 

 

 

 


本丸・二の丸方面から水の手曲輪に向かう途中にも虎口があるのですが、堀切跡もハッキリ確認できます。

 

 

 

 

 


しばらく進むと休憩できる屋根付きのベンチ(あずまや)がありますが、ここがかつての水の手曲輪跡といわれています。

 

 

 

 

 


二俣城の水の手曲輪のエピソードとは…

 

 

三河物語によると、元亀三年(1572)、徳川氏の二俣城は武田勝頼率いる武田氏軍に攻められましたが、城代・中根正照の必死の守りによって落城しませんでした。

 

 

攻めあぐねた勝頼は、城の周辺を徹底的に観察します。

 

 

すると二俣城は、櫓を使い水を天竜川から汲み上げていました。どうやら城内に井戸が無かったか、もしくは十分な飲料水を城内だけでは確保できなかったのでしょう。

 

 

そこに目を付けた勝頼は、天竜川の上流からたくさんの筏(いかだ)を流します。筏は水汲みに使っていた櫓に当たりまくり、とうとう柱が折れて崩れてしまいました。

 

 

それ以後、二俣城では飲料水が不足して守備兵の士気も大きく低下し、ついに落城してしまいましたとさ。

 

 

ちなみにこの時に落城した二俣城を拠点にして武田軍は西上を進め、三方ヶ原合戦に繋がっていきます。

 

 

二俣城跡にはもう水を汲んでいた櫓はありませんが、信康の菩提寺清瀧寺に二俣城の井戸や櫓が復元されています。

 

 

 

 

 


水の手曲輪の先に行くとそのまま歩いて鳥羽山城に行けますが、右手(北側)にに天竜川が流れています。二俣城の北側を守っていた天然の堀です。

 

 

 

 

 


水の手曲輪からは鳥羽山城が見えます。

 

 

現在の堤防は戦国時代にはなく、眼下の住宅地はかつての天竜川でした。つまり二俣城と鳥羽山城は、天竜川対岸の城だったという事がわかりますね。

 

 

今では堤防が作られて天竜川も遮断され、その堤防の上を歩いて二俣城と鳥羽山城を行き来することができるんです。

 

 

 

 

 

車で鳥羽山城のアクセス方法と駐車場


次に鳥羽山城を攻略してみましょう!

 

 

鳥羽山城は標高108mの山で、天正三年(1575)年に徳川家康が武田方となった二俣城を攻めるために砦を築いて本陣を置いた歴史があります。

 

 

その後は徳川氏所有となり、家臣の大久保忠世が入城し、家康の関東移封後は浜松城主・堀尾吉晴の弟である堀尾宗光が城主となります。

 

 

大久保氏、堀尾氏時代、二俣城と鳥羽山城は別郭一城として機能していた事が分かっています。

 

 

別郭一城とは2つの主要となる曲輪を持った城のこと。逆にいえば2つの独立した城をセットにして1城にしたもの。

 

 

なぜこんなことをするのかというと、片方の城が落ちても、もう片方の城に籠り戦えるからです。二俣城と鳥羽山城が有名ですが、おなじ静岡県にある高天神城も別郭一城の城です。ちなみに日本城郭検定にも出てくる用語です。

 

 

 

 

 


鳥羽山城は二俣城から歩いて来れますが、車で移動すると楽ですね。専用の駐車場が二ヵ所あります。

 

 

まずはカーナビで鳥羽山城公園と入力してみましょう。

 

 

もし出てこなければ、地図でチェックしてみてください。

 

 

>>鳥羽山城公園駐車場の地図

 

 

余談ですが、鳥羽山城公園の駐車場は二ヵ所ともかつての帯曲輪跡です。

 

 

 

 

 

側面攻撃がよく分かる虎口


それでは鳥羽山城跡の大手(正門)から本丸までを見てみましょう。鳥羽山城跡の縄張りは、本丸周辺にいくつかの帯曲輪を配しただけのシンプルなものです。

 

 

 

 

 

 


これが大手道。まっすぐかと思いきや早速曲がっている事がよく分かります。

 

 

東曲輪、南第1曲輪、南第2曲輪からの側面攻撃がしやすい様に曲げてあります。

 

 

 

 

 


大手道には当時の石垣も残っています。工法は野面積み。石の間のスキマにも河原石を使って丁寧に間詰めしてあります。

 

 

 

 

 


そして本丸前には外桝形の虎口があります。曲がっているのがよく分かりますね。

 

 

 

 

 


大手から攻めてきた敵に対し、本丸から側面攻撃できやすいようにしてあります。門は礎石が出てきており、門を攻撃している間にも敵は城兵から側面攻撃を受けるワケです。

 

 

 

 

 


本丸虎口の石垣を見ると、何やら穴が開いています。これは暗渠(あんきょ)跡で、分かりやすく言うと排水の穴です。本丸から外側に向けて排水できる様になっています。

 

 

 

 

 

なぜ本丸に庭園が?


そして本丸。城の中心部ですね。ただの大きな丸い曲輪と思いきや、ココにも見るべきものがあります。それが庭園跡東門跡です。

 

 

 

 

 

 


まずは本丸に残る庭園跡。城の本丸に庭園とはかなり意外!と思いますが、ここに先ほど説明した別郭一城の性格が出ているワケです。

 

 

どういうことかというと、徳川氏〜堀尾氏時代には、二俣城と鳥羽山城はセットで1つの城となっており、二俣城には天守(台)があり鳥羽山城には庭園がある。

 

 

この事から鳥羽山城は城主が普段生活していた建物があり、迎賓のための庭園があったという事。そして鳥羽山城は天守があった事から、戦になった時に籠城するための詰めの城という事が考えられます。

 

 

実際、二俣城の方が高い位置にあります。天守に登れば鳥羽山城と周辺を一望できたのでしょう。

 

 

ちなみに城に庭園があるのは鳥羽山城だけではなく、愛知県瀬戸市の桑下城跡も発掘調査の結果、庭園の遺構が確認されました。

 

 

>>尾張桑下城跡

 

 

 

 

 


これは本丸東門跡。当時は門があったのか、渡橋みたいなものだったのかよくわかりませんが、石垣でシッカリ固めてあります。

 

 

 

 

 

搦手門と腰巻石垣

 


そして搦手(からめて)門もチェックします。大手門とは正門ですが、搦手門とは裏口、つまり裏門です。

 

 

裏門といっても、もちろん敵に攻められる可能性があった時代なので、防御もシッカリ意識した作りになっています。

 

 

 

 

 


搦手門をまっすぐ進むとUの字をした下り坂になっており、笹曲輪があります。この画像は逆に本丸に向かって進んでいるもので、左手に笹曲輪、右手に本丸があり、道が曲がっていますよね。

 

 

もし敵が本丸に迫った時… どうなるかはもうわかりますよねw

 

 

 

 

 


さらに下ると腰巻石垣を確認できます。腰巻石垣とは、石垣の上に土塁を築いたものです。

 

 

なぜこんなことをするのかというと石の節約のため。または工期やコストの削減のためでもあります。草木が生い茂ってよくわかりませんが、どんな状態なのか全貌を見てみたいですね。

 

 

 

 

 

私の感想と所要時間


私の二俣城と鳥羽山城の感想ですが、この2つの城はセットで巡るのがオススメだと思いました。その理由は主に3つあるからです。

 

 

ひとつめの理由は、時代的にも別郭一城の城となっており、そのためにそれぞれの城に役割があったから。つまり二俣城は天守がある戦のための城で、鳥羽山城は庭園がある城主の館&迎賓のための城という事。

 

 

ふたつめの理由は近いから。ウォーキングコースにもなっているので、歩いて散策できます。もちろん両方とも駐車場完備なので車でもOK!

 

 

そして3つ目は歴史のエピソードと遺構がよく残っているから。二俣城は松平(徳川)信康最後の地でもありますし、二俣城も家康の本陣になっています。そして両方とも当時の野面積みの石垣や虎口などがハッキリと残るので見ごたえがありますよ。

 

 

所要時間は二俣城1時間くらい。鳥羽山城は約45分くらいです。もちろんこれは目安で。

 

 

そしてこの2つの城とセットにしたいのは信康の菩提寺である清瀧寺。車だと5分くらいですし、信康の墓や二俣城の水汲み櫓が復元されています。