川中島の戦いで討ち死にした信玄の弟・武田信繁の墓

川中島の戦いで討ち死にした信玄の弟・武田信繁の墓

長野県小諸市の武田信繁の墓への案内看板
長野県小諸市大久保には武田信玄の弟・武田信繁の墓があります。

 

■武田信繁の墓の住所■
小諸市大久保232

 

>>武田信繁の墓の地図

 

 

なぜここに墓があるのか?その理由
 

長野県小諸市の武田信繁の墓碑ゆらいに着いての看板
小諸市ら建てた現地看板には以下のようにあります。

武田信繁の墓碑由来について

 

 永禄四年(1561)9月の川中島合戦は、信玄隊謙信の最大の戦いで両軍とも有名な武将を多く失っている。信玄方の副大将であった信繁もこの激戦において戦死した。最後まで信繁のそばで奮戦した忠臣・山寺五左衛門はこの川中島が大激戦地で御首級を収める場所がなかったので御体のみを埋め(現在の川中島 典厩寺墓所)首級は幌で包み地蔵峠を越えて小諸に向かったという。

 

 なぜ小諸へ向かったかというと、当時の小諸は甲斐の領地であり、永禄二年(1559)まで信繁の嫡男・信豊が城主をしていた甲斐方の拠点であったからである。小諸に着いた山寺は信豊の家臣などと相談し領内のこの地を選び、有合わせの陣鍋で首級を覆い葬ったといわれている。

 

 時代は移って寛保の千曲川大洪水で信繁の墓碑(五輪の塔)が流出し嘉永二年(1849)この付近の畑中よりそれと思われる円石が発見され判読の結果信繁の墓碑と判明した。その墓碑は現在布引山釈尊寺に寄託されており、今の墓碑は明治二十年(1887)に建立したもので、信繁の首級はこの墓の下に往昔のまま陣鍋に収められ静かに眠っているといわれている。

 

小諸市

これを見ると川中島で亡くなった信繁をこの地で埋葬しましたが、江戸時代の洪水で墓碑が流れてしまい、明治に作り直したということですね。

 

 

 

真田信繁と武田信繁の関係とは
 

上田駅前の真田信繁像
武田氏の家臣にはもうひとり信繁(のぶしげ)という名前の人物がいます。そう、真田信繁(幸村)です。

 

彼は幼名を弁丸といいましたが、父・昌幸が武田信繁を敬愛するあまりに次男に同じ名前を付けたといわれています。だから真田信繁の名前は、武田信玄の弟・武田信繁から来ているのです。

 

 

 

そして墓碑
 

長野県小諸市に建つ武田信繁の墓碑
現地には大きな墓碑があります。案内看板によると明治時代に建てられたものですが、この下に首級が眠っているとのこと。

 

私の感想ですが、武田信繁は信玄の信頼も厚く、当時の武田家での存在も大きかったというので、貴重な武将の墓だと思います。現在でも近隣の方々でしょうか、墓碑と周辺の手入れもキチンと行われていました。

 

甲斐(山梨県)ではなく、小諸市に残っているのが意外ですが、これも名将の墓だと思います。