長野県飯田市にある峯高寺(ほうこうじ)には飯田城主だった小笠原秀政の正室・福姫(登久姫)の墓が残っています。
飯田市松尾町4丁目6
なぜ峯高寺に彼女の墓があるのか?その理由がこれです。
飯田城主 小笠原秀政室 福姫の墓
小笠原秀政は慶長六年から十七年(1601〜17)間、飯田藩五万石の城主をつとめ、のちに松本深志城へ移封となった。秀政の奥方福姫は、徳川家康の孫娘で、織田信長の孫娘にもあたる。慶長十二年(1607)十月、ほうそうを患って三十一歳で没し、峯高寺に葬られた。宝篋印塔(ほうきょういんとう)の墓石には三葉葵の紋が刻まれている
飯田市観光協会
飯田城主・小笠原秀政に嫁いだ福姫でしたが、ほうそうが原因で亡くなってしまいます。ほうそうとは天然痘(てんねんとう)ともいい、紀元前より伝染力が非常に強く死に至る疫病です。現在ではワクチンも開発され、WHO(世界保健機関:World Health Organization: WHO)によって天然痘の世界根絶宣言も行われており、もう世界中で天然痘患者の発生はないといわれています。
ところで福姫の墓の説明板を呼んでみると、気になるポイントがあります。それが次のフレーズ。福姫は、徳川家康の孫娘で、織田信長の孫娘にもあたる。これはどういうことかというと、福姫の親が織田信長と徳川家康の子供だからです。
まず福姫の母は織田信長の娘である五徳。そして父は徳川家康の息子・松平信康。つまり福姫は織田信長と徳川家康の血を引く孫娘ということ。その福姫が嫁いだのが小笠原家です。
ちなみに秀政との間には六男二女の子供を授かり、次男・忠真によって小笠原家にその血が受け継がれていきます。
また登久姫の墓には徳川将軍家の家紋である三つ葉葵紋が刻まれています。将軍家つまり徳川家ゆかりの人物ということで、三つ葉葵紋が刻まれているのでしょう。