徳川家康の生母・於大が見送りの供を岡崎城に送り返した深い理由とは

徳川家康の生母・於大が見送りの供を岡崎城に送り返した深い理由とは

刈谷市椎ノ木屋敷跡に建つ傳通院(於大の方)の銅像
徳川家康の生母・於大(おだい)は13歳で松平広忠のもとへ嫁ぎ、翌年に竹千代(徳川家康)を産みます。

 

しかし実家を継いだ兄・水野信元が松平氏と手を切り、なんと松平氏の敵だった尾張の織田氏に属したのです。これにより於大は松平広忠から離縁(今でいう離婚)され、竹千代とも離されて実家に返されました。松平記にはこの時の於大の気配りの逸話が紹介されています。

 

 

岡崎領から刈谷領の境付近に来た時、於大は付き添ってくれた松平家の家臣たちに岡崎城に帰るように伝えました。

 

その場所は於大の実家である刈谷城に遠く、刈谷城まで送り届けるようにと松平広忠から命じられた家臣たちは、それでは主君の命令に背いてしまうと言うと、於大はその理由を次のように答えました。

 

『私の兄、水野信元はとても短気です。もし今では敵となったあなた達が刈谷城まで来るとヒドい目に遭うかもしれません。そうなると松平と水野両家に新たに遺恨が残るでしょう。私は大丈夫だからもう岡崎城へ帰りなさい』。

 

それを聞いた松平氏の家臣たちは近くにいた刈谷の領民に於大を載せた輿を託して岡崎城に帰って行きました。そして於大は刈谷城に戻ったのです。

 

ちなみに於大の姉も片原松平氏(愛知県蒲郡市)に嫁いでおり、実家に帰されましたが、そのまま刈谷城まで来てしまい水野信元に討ち取られてしまいましたとさ。

 

この逸話から於大の気配りがわかります。