武田信玄の家臣で武田四天王のひとりに数えられた馬場信春(信房)と武田信玄の信頼関係を示す逸話です。
徳川四天王のひとりに数えられている本多忠勝は生涯で57回の合戦に出陣し、1度も負傷しなかったといわれています。まさに豪傑!しかし彼が亡くなる時の逸話には怪我が関係していました。
慶長五年(1600)の関ヶ原合戦後、桑名藩(三重県桑名市)主に命じられた本多忠勝は桑名城の拡張や治水、東海道の整備など行政でも活躍します。しかし除々に病を患う様になり、江戸幕府の中枢から少しずつ遠ざかっていきました。
そんなある夜、忠勝は自分の小刀で自分の持ち物に名前を彫っていると、うっかり手を滑らせて指を切ってしまうのです。この時忠勝は『私もこれまでだな』とつぶやき、数日後に亡くなったといわれています。
本多忠勝の墓は晩年を過ごした三重県桑名市の浄土寺にあります。寺の入口に本多忠勝の廟所(墓)を示す石碑が建っており、忠勝が好きな歴史ファンの参拝も多いとか。また居城だった桑名城には本多忠勝の銅像も建立されています。