徳川四天王のひとりに数えられた豪傑・本多忠勝が亡くなる時の逸話は意外なものでした。
甲斐(山梨県)、信濃(長野県)を治めた戦国大名・武田信玄には、後世に武田四天王と呼ばれる優れた家臣がいました。その中のひとり、馬場信房はモノより名を惜しんだ武将として知られ、次のような逸話が残っています。
永禄十一年(1568)武田軍は今川領だった駿河国(静岡県東部)に攻め入り、今川氏真の本拠地・今川館を落とします。今川館が炎上し始めた時、武田信玄は今川氏が収集した財宝や名物が焼失するのを惜しんで、家臣に運び出すよう命じます。それを聞いた馬場信房はすぐに現地へ駆けつけて、運び出した財宝や名物を再び火の中に投げ込んでしまいました。
驚いた信玄が信房に理由を聞くと、『お館様(武田信玄のこと)が貪欲な人間として周囲、または後世の物笑いになってしまうから』と答えました。
これを聞いた信玄は、「さすが馬場信房である」と褒め、モノより名を惜しんだ馬場信春の器量に恥じ入ったと伝わります。この逸話から読み取れることは以下の3つです。
この信房の人柄も後世、武田四天王の一人に数えられる理由になったのではないでしょうか。そんな信房は信玄の死後、息子の武田勝頼に仕え各地を転戦。天正三年(1575)の長篠・設楽原の戦いで武田軍の総退却が決まると、自ら殿(しんがり:軍の最後尾に留まり全員を逃がすまで敵軍を食い止める役目)を引き受け、討ち死にしました。織田信長の一代記・信長公記にはこの時の信房の活躍が次のように記されています。
なかでも信房の討ち死に直前の活躍は比類のないものであった。
〜現代語訳信長公記 中川太古訳 新人物往来社〜