城の歴史

天守閣だけが城じゃない!城の長い歴史を分かりやすく簡単に解説

 

 

城といえば、天守閣があって、石垣があって、大きな水堀があって…というものを思い浮かべますよね。

 

 

確かにそれも城なのですが、専門的に言うとそれらの城は、ほとんど江戸時代以降の近世城郭(きんせいじょうかく)という城なのです。

 

 

では他にどんな城があるの?城の歴史の始まりはいつで、城の歴史の終わりはいつなのか?

 

 

この記事ではそんな城の歴史について解説します。

 

 

 

 

環濠集落


公益財団法人・日本城郭協会では、佐賀県の吉野ヶ里遺跡を城の発祥としています。

 

 

この吉野ヶ里遺跡は、弥生時代の環濠集落(かんごうしゅうらく)というもので、簡単に言うと、堀と土塁で村を囲んで防御度を上げたものです。

 

 

こうすることによって外敵から村を守ることができます。

 

 

日本100名城スタンプラリーの88番に吉野ヶ里遺跡がある理由がこれですね。

 

 

 

 

 

古代山城

天智二年(663)、白村江(はくそんこう:はくすきのえ)の戦いで、日本・百済連合軍が唐・新羅連合軍に敗北します。

 

 

反撃を恐れた大和朝廷は、大宰府防衛のために百済の技術で山城を築かせます。これが古代山城です。

 

 

続に朝鮮式山城ともいうのですが、城郭研究上、記録に残るものが朝鮮式山城で、記録に残っていないものを神籠石系(こうごいしけい)山城と言います。

 

 

朝鮮式山城は福岡県大野市の大野城、そして長崎県対馬市の金田城などが有名です。

 

 

また神籠石系山城は福岡県行橋市の御所ヶ谷神籠石(ごしょがたにこうごいし)などがあります。

 

 

 

 

 

柵・城柵

飛鳥〜平安時代(7〜11世紀)頃、大和朝廷が蝦夷(えみし)討伐のために東北地方に築いた施設が柵(さく)、または城柵(じょうさく)です。

 

 

もともとは律令国家体制の確立目的の軍事防御施設だったのですが、次第に政治・経済の中心地になっていきます。

 

 

大化三年(647)に築かれた新潟県新潟市の渟足柵(ぬたりのき/ぬたりのさく)が、記録に残る最初の城柵です。

 

 

100名城では宮城県多賀城市の多賀城、続100名城では秋田県秋田市の秋田城などがあります。

 

 

 

 

 

鎌倉時代の居館

地形を利用した要塞で、切通という防御を用いた鎌倉城が誕生しました。

 

 

これは御家人の居館の要塞化で源頼朝が拠点とした鎌倉城が有名です。

 

 

 

 

 

南北朝の山城の誕生

元弘二年・正慶二年(1332)、現在の大阪府南河内郡千早赤阪村にあった千早(ちはや)城の戦いで、楠木正成が山城を活用した山岳戦を展開。

 

 

この出来事で、今まで野戦がメインだった戦に籠城戦、つまり城に籠ってという選択肢が加わって、山城が軍事拠点として飛躍的に発展します。

 

 

この時代、後世でいう縄張りはあまり考えられず、とにかく人里離れた険峻な山ほど堅固という考えがメインで、古代由来の山岳寺院を山城化するケースも多くみられました。

 

 

また一方で応仁の乱(1467〜77)後は、守護大名が住んでいる居館を城塞化する様になります。

 

 

ここで有名なのは甲斐(山梨県)の武田氏の躑躅ヶ崎館などです。

 

 

 

 

 

戦国時代の山城の発展


戦国時代に入ると有力守護による、【居館】と【詰城】の二元構造が出来上がります。

 

 

つまり平和な時は山麓の居館で生活し、戦などの有事の際には近くの山城に籠り敵を迎え撃つというスタイルです。

 

 

例えば次の様な事例をあなたは聞いた事がありませんか?

 

  • 躑躅ヶ崎館と要害山城(武田氏)
  •  

  • 一乗谷朝倉氏遺跡と一乗谷城(朝倉氏)

 

これらは典型的な例です。

 

 

また守護大名の城とは異なり、地域の実力者の居城も山城が選ばれる事もありました。

 

 

毛利元就の吉田郡山城(広島県安芸高田市)、上杉謙信の春日山城(新潟県上越市)などですね。

 

 

この頃から縄張が工夫される様になり、虎口が複雑になったり、連続竪堀も登場する様になります。

 

 

しかしこの頃は軍事施設の天守はありませんでした。

 

 

 

 

 

天守の誕生


天正四年(1576)、織田信長が築城した安土城で日本初の天守が誕生します。

 

 

※安土城では天主と表記

 

 

実はこれ以前にも岐阜城や尾張楽田城に天守があったと解釈される説がありましたが、現在では安土城が最初の天守と考えられています。

 

 

しかしこの時代、城の発展の歴史を見る上で、もっと他に注目するべきことがあります。

 

 

それが城+αです。

 

 

簡単に言うと、それまでとは、敵が攻めてきた時に自分たちの命を守り抜くための防御施設というものでした。

 

 

しかし戦国時代が終わり安土桃山時代(織豊期)になると、城は軍事拠点であると同時に、大名の軍事力や権力、財力を誇示(見せつける)象徴にもなりました。

 

 

また城下町もこの時代に大きく発展し、城は防御施設という考えだけでなく、権力や軍事力、そして経済の中心地となります。

 

 

そしてこのスタイルは信長以降の天下人である、豊臣秀吉、徳川家康にも受け継がれていきます。

 

 

 

 

 

そして海防施設

戦国時代が終わり、泰平の世が訪れてもの歴史は終わりません。

 

 

なんと幕末、黒船が来航してから日本を守るために築かれた海防施設も城郭研究上、城として研究されています。

 

 

日本100名城の2番、北海道の五稜郭や日本続100名城124番に品川台場があるのがその理由です。

 

 

これらの軍事施設は、西洋の軍学を取り入れた海防施設で、それまでの日本の城とは違った特徴がありました。

 

 

しかし江戸時代が終わり明治時代になると、これらの海防施設の歴史も幕を閉じました。

 

 

 

 

 

私の感想

私は城郭研究を学ぶまで、天主閣=城 とばかり思っていました。

 

 

しかし城の歴史を学んでみると、弥生時代から幕末まで城の歴史は幅広く、またいろんなスタイルの城があることが分かりました。

 

 

ちなみに私が住んでいる愛知県には、城跡として研究されているものが約2,200以上もあります。

 

 

私はそのほとんどを8年かけて巡りましたが、遺構が残っているものもあれば、マンションや駐車場、または道路になってしまった場所もありました。

 

 

これからはもっと地方の城や全国の城を巡ってみたいと思います。