大阪城の肥後石は結構薄かった!巨石の中をチラ見した感想

大阪城の肥後石は結構薄かった!巨石の中をチラ見した感想

大阪城蛸石
現在の大阪城は豊臣氏滅亡後、徳川幕府により再建されたもので、地表面に残る石垣も徳川時代のものです。しかしその石垣の石がスゴい!巨石が多いのです。特に肥後石(ひごいし)、蛸石(たこいし)、振袖石(ふりそでいし)など、クレーンやトラック、コンベアなど無かった時代によくこれだけのものが運べたな〜と思います。

 

 

 

石垣の巨石の移動方法
大阪城は天下普請(てんかぶしん)といって、幕府の命令で複数の大名家が協力して築いた城。動員する人夫(作業員)も数万人規模で、3期に分けて築かれています。

大阪城築城大名家
第一期工事 元和六年(1620)〜 47家
第二期工事 元和十年(1624)〜 58家
第三期工事 寛永五年(1628)〜 57家

江戸幕府の号令で築かれているので動員された作業員もかなり多く、これだけの巨石も人海戦術で運ばれたのですね。

 

 

 

でも意外と薄かったりする
 

大阪城肥後石
大阪城の巨石の中で一番大きな石は蛸石。そして肥後石、振袖石と続くのですが、これらを運んだのは備前岡山藩2代藩主・池田忠雄(いけだ ただかつ)。播磨姫路藩主・池田輝政の三男(六男とも)です。

 

正面から見るとかなりの巨石なのですが、実は過去に修復工事があって、その内部が明らかになっています。

 

 

 

大阪城肥後石の内部
大阪城天守に展示してある石垣内部の構造写真。これを見ると肥後石は板状になっていることがわかります。そして注目したいポイントはこの板状の巨石を支える石垣が裏にあるということ。板状なので支えが必要なのですね。

 

 

 

大阪城肥後石と裏を支える石垣
普段は見ることができませんが、これも巨石のからくりなのでしょう。私の感想ですが、逆に板状だと割れてしまいそうなので、かなり慎重に運ぶ必要があったのではないかと思います。