織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、三英傑の好物と食べ物の逸話

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、三英傑の好物と食べ物の逸話

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康像
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、俗に三英傑と呼ばれる武将たちにはそれぞれ好きな食べ物と食べ物に関する逸話が残されています。それはどんなものだったのか?残されたエピソードからチェックしてみましょう。

 

 

 

早く済ませたい信長
 

信長が好んだ湯漬け
織田信長の食事の特徴として早めに済ませるというのがありました。そこで好んで食べたのが湯漬けです。ごはんにお湯をかけたもの。永禄三年(1560)桶狭間に出陣する時に立ったまま湯漬けを食べたことが信長公記に記載されています。まあ、一刻を争う出陣だったのでゆっくりと食事を楽しんでいるヒマはありませんけれど。

 

 

 

上品な料理はキライ
 

戦国時代の料理
信長が足利義昭を奉じて上洛した後、機内に勢力を持っていた三好氏の城を落とし、坪内某という料理人を捕らえたことがありました。京の都で評判の料理人ということで信長が料理を作らせたところ、水っぽく不味い料理ということで怒ってしまい、すぐに処刑するよう家臣に命じます。

 

坪内某は平伏し『もう一度機会を与えてください。次も不味ければ自ら腹を切ります』と言って、料理を作り直しました。すると信長は美味い!と上機嫌。

 

2つの料理の違いは何だったのか?後に坪内某は知人にこう答えています。

 

『最初の料理は京風で上品に作ったもので、次は味噌をふんだんに使い田舎風に仕上げたもの。信長公は料理の味の良さが分からない』

 

 

 

天下人秀吉が行き着いた食
 

割粥
豊臣秀吉は日本を統一し天下人となった人物。贅沢も思いのままでした。そんな秀吉が晩年に好んだのが割粥(わりがゆ)です。

 

割粥とは米を細かく砕いたおかゆの事。贅沢の行き着いた場所がおかゆだったとは意外ですね。おかゆは米とお湯だけなので味もシンプル。ときには塩や味噌、梅干しくらいは入れたのかもしれませんが、消化にもよく弱った胃でも受け入れやすい食事です。

 

 

 

高野山の気配りに激怒した理由
 

老人雑話という書物に次のような話があります。天下人となった秀吉が高野山を訪れた時に割粥を所望しました。その後、家臣に高野山には米を砕く石臼が無いことを報されましたが、しばらくすると割粥が出てきたのです。

 

料理人がいつ割粥を所望されても良いように石臼を持参していたのだと感心していた秀吉でしたが、やはり石臼はなく、大人数で米を刻んで作ったことを報されます。

 

秀吉は感激すると思いきや激怒!その理由を料理人に次のように伝えたといわれています。『天下人の儂(わし)が望めば米を一粒ずつ削らせて粥を作らせることもできようが、儂はそのような驕りはしたくない』。

 

 

 

守口漬を命名
 

長い漬物で知られる守口漬は河内国(かわちのくに)今の大阪府守口市で栽培されていた長大根(細大根)が起源の漬物です。守口村の庄屋・源兵衛が長大根の漬物を豊臣秀吉に献上すると大いに賞賛して、地名から守口漬と命名したといわれています。

 

 

 

多くの人が死ぬので禁止
 

冬の味覚として今ではすっかり定番になったふぐ。戦国時代はもちろん、それ以前から食べられていましたが、やはり毒に当たり多くの人が亡くなっていたようです。そこで豊臣秀吉がふぐ食を禁止。これが江戸時代にも引き継がれ明治になって初代内閣総理大臣・伊藤博文が解禁しました。

 

 

 

家康が濃い味を好んだ理由
 

浜納豆
ケチで質素倹約家で知られる徳川家康は濃い味の食べ物を好んだといわれています。理由は少しのおかずでたくさんの飯を食べることができるから。また贅沢を嫌い麦飯を好むなど派手な食べ物は好みませんでした。しかし晩年に死因といわれている食べ物があります。それが鯛の天ぷらです。

 

 

現代の医者はどう診る?
 

豊臣家が滅んだ大坂夏の陣後、家康は当時珍しかった鯛の天ぷらを好んで食べてた後、腹痛を起こしそれが原因で亡くなったといわれています。

 

これは有名な話ですが、現在の女医・馬渕まり氏はこの死因を著書の戦国診断室で否定しています。その理由について、腹痛を起こしてから数ヶ月後に家康が亡くなっており、時間が経ちすぎている点を指摘しています。

 

ちなみにこの時に鯛の天ぷらを食べたのが丸い城で有名な静岡県の田中城といわれています。